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東京高等裁判所 昭和56年(ネ)2448号 判決 1985年4月22日

控訴人

田端千春

右法定代理人親権者母兼

控訴人

佐久間淑

右両名訴訟代理人

椎名麻紗枝

紙子達子

鈴木利廣

吉永精志

永井義人

被控訴人

村田達江

右訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一  申立て

控訴人は、「原判決を取り消す。被控訴人は、控訴人田端千春に対し金二九八九万円及び内金二七三九万円に対する昭和五一年一二月二二日から、内金二五〇万円に対する本判決確定の日の翌日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。被控訴人は、控訴人佐久間淑に対し、金五六六万円及び内金五一六万円に対する昭和五一年一二月二二日から、内金五〇万円に対する本判決確定の日の翌日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決及び仮執行の宣言を求め、被控訴人は、控訴棄却の判決を求めた。

第二  主張

当事者双方の主張は、次のとおり付加するほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。

控訴人は、次のとおり述べた。

一  昭和四八年六月七日における被控訴人の麻疹及び麻疹脳炎の予防義務等違反について

被控訴人は、控訴人田端が昭和四八年六月七日に受診した際、同控訴人に対する麻疹の完全予防義務に違反し、又は麻疹についての説明義務を怠り、同控訴人に対して両下肢麻ひの重篤な障害を生じさせた。すなわち、同控訴人の兄久嗣が遅くとも同月二日麻疹を発症したこと等からみて、久嗣と常に接触し、麻疹未経過児である同控訴人は、右二日麻疹に感染したと推認されるので、同控訴人が来院した際、被控訴人は、同控訴人が三年三か月の幼児であること、感染後六日以内であることを考慮し、ガンマーグロブリンの予防量を投与して、麻疹の発症を完全に予防すべきであつた。けだし、麻疹は、重症麻疹、麻疹後肺炎、麻疹脳炎等、場合によつては死亡、重度後遺症に至る重大な合併症を稀に起こすことが医学的に知られているので、満四歳以下の年少児については、何らかの点で個体の抵抗性が減弱していることを考え、感染予防を行うべきであるとされている。そのためにワクチンやガンマーグロブリン投与による予防法も知られているのであつて、かかる症状についての危険性を前提にすれば、麻疹感染患児に対するガンマーグロブリン療法については、予防量投与法及び軽減量投与法の双方について患者側に十分説明し、その選択に基づいて医療行為を実施しなければならない。軽減量投与法の利点は終生免疫の点だけであるから、ワクチンが実用化された以上、万が一にも麻疹脳炎発生の危険性がある軽減量投与法をとるときは、十分に説明義務を尽くし、患者の自己決定権を尊重して、患者の同意を得るべきである。被控訴人は、開業医にはかかる説明義務はなく、また右二方法のいずれをとるかは、その裁量に属すると主張するけれども、誤りである。本件の場合、控訴人田端は、前述のように、感染後六日以内であることが容易に推定される状況にあり、かつ、三年三か月の幼児であつたのであるから、被控訴人としては完全な予防措置が可能であることを考慮し、控訴人田端に対して感染予防の方法をとるべき義務があり、仮にそうでないとしても、予防量投与法が可能であること、その方が副作用等もなく、かつ、事後においてワクチンの接種により、終生免疫を得られることが可能であることを説明して、患者側の自己決定権を尊重し、その同意を得て、医療行為をなすべき義務があつたといわなければならない。しかるに、被控訴人は、右注意義務を怠り、前記二方法を比較考量することなく、漫然と軽減量投与法をとつたものである。

二  昭和四八年六月一九日における被控訴人の麻疹脳炎の診療義務違反について

被控訴人は、控訴人田端が同月一九日午後五時ころ受診した際、同控訴人が高熱を出し、麻疹脳炎の臨床症状の90.66パーセントを示す意識障害ないしこれを疑わせる症状のほか、呼吸困難、尿閉等の症状を呈していたのであるから、当然麻疹脳炎の診断を下し、これに対する最善の治療をなすべきであるし、それが出来ないときは、直ちにそれが可能な治療設備を有する病院に転医させなければならない義務がある。仮に同控訴人の右各症状によつて麻疹脳炎の確定的診断が出来なかつたとしても、右各症状から麻疹脳炎を予見し、早期に脳脊髄液検査をし、麻疹脳炎を発見すべき義務がある。しかるに、被控訴人は、右義務を怠り、漫然と自宅療養を指示したのみで、同控訴人を帰宅させた。被控訴人は、右症状は麻疹の最盛期を示すものであり、被控訴人の受診以降急激に同控訴人の症状が変化して、麻疹脳炎を併発したものであると主張するけれども、同控訴人は、同月一六日に既に発疹があつたのであるから、通常であれば、熱も下がり、右各症状は呈しない筈であつて、それにもかかわらず、同控訴人が依然として高熱を続け、傾眠ないし半昏睡の状態を示す意識障害を呈し、尿閉(これは神経因性直腸膀胱障害によるものである。)が存在したことをみれば、同控訴人につき麻疹脳炎を疑うべきことは当然であつて、被控訴人の右主張は、理由がない。

三  被控訴人の損害賠償責任について

麻疹脳炎は、医学書によれば、約四三パーセントから六八パーセントの治癒例が報告されており、鑑定人でもある原審証人市橋保雄の証言によれば、その治癒例は三分の一から二分の一位であるとされているから、控訴人田端が早期に強力な対症療法を受ければ、同控訴人の麻疹脳炎後遺症は回避できた高度の蓋然性が認められる。すなわち、前述のように、同控訴人には麻疹合併症を疑うべき諸症状が存したのであるから、被控訴人がその旨認識して麻疹脳炎の有無を確認すべく脊髄液検査及び麻疹脳炎治療(全身的保存療法)の可能な病院に同控訴人を転医させれば、脊髄液検査が実施され、麻疹脳炎の合併症が診断されて、右診断に基づき直ちに全身的保存療法による治療を受けることにより、同控訴人は下半身麻ひの後遺症を残すことなく治癒した可能性が存在する。しかし、その可能性が高度であることを証明することは、控訴人らにとつて極めて困難なことであるが、当該患者につき結果回避の実験が許されない医療過誤事件の特殊性に鑑みると、いわゆる「証明妨害」の理論により、その証明責任は軽減され、又は被控訴人に転嫁されるものと解するのが相当であるから、特段の事情がない限り、その高度の可能性があつたものと推認すべきである。したがつて、被控訴人の過失と控訴人田端の後遺症の発生との間には因果関係を肯定すべきであり、被控訴人は、その損害賠償責任を免れることができない。

仮に右因果関係の証明に不確定要素があるとの理由によりその全損害を認容することができないとしても、治癒率六〇パーセントを前提に全損害の六〇パーセントについては、請求を認容すべきである。

仮に治癒可能性のみでは法的因果関係を認めることができないとしても、同控訴人は、最大限適切な治療を求める可能性を奪われたものであり、その範囲において金一〇〇〇万円を下らない慰謝料を認容すべきである。

被控訴人は、次のとおり述べた。

一  被控訴人が予防義務等に違反したとの点について

麻疹の完全予防は、使用するガンマーグロブリンの力価、量、注射のタイミング、患児の個人差等を考慮した場合、かなり不確実であること、免疫持続が一か月程度にすぎないことなどの欠点があるために、流行期に合併症を起こすおそれのある二歳以下の乳幼児及び病児虚弱児に対してはガンマーグロブリン注射による受動免疫が行われるが、一般的に受動免疫を広く試みることは適当でないとされており、またワクチンによる免疫についても、終生免疫が得られるかどうかが未確認であるうえ、ワクチンを接種しても、なお、麻疹脳炎のような中枢神経障害発生のおそれは依然として残されており、しかも我が国におけるワクチンの使用経験によれば、一〇〇パーセントの発熱副作用、異型麻疹の問題があつて、昭和四七年ころには麻疹ワクチンは一時使用中止になつたなど、昭和四八年六月当時の開業医にとつてワクチンの使用は強い拒否反応があつた。これに対し、麻疹は発病しても軽症に経過することができれば、以後終生免疫を得られること、麻疹脳炎の発症率は0.1パーセント程度であることなどをあわせ考えると、通常、軽減量投与法をとつて軽症麻疹として経過させるべきものであつて、予防量投与法は、例外的な場合に限られるべきである。控訴人らは、満四歳以下の年少児については、感染予防を行うべきであると主張するけれども、右年齢の児童について予防量投与法を実施しなければならないとする医療水準はなく、右二方法のいずれを採用するかは、主治医のケース・バイ・ケースの判断に委ねるべきものである。また、昭和四八年当時の開業医の医療水準に照らすと、被控訴人には控訴人主張のような法的説、明義務は到底存在しない。このことは、日本薬局方・人免疫グロブリン能書き(乙第六号証)の記載、すなわち「本剤は麻疹症状軽減に最も広く用いられる。永続性のある免疫は麻疹を軽くすませることによつてえられるので、特殊な場合を除いては完全防止より症状の軽減をはかるのが望ましい。」、例外的に「麻疹処置の重点は予防より症状軽減にあるとはいえ、二歳以下の乳幼児‥‥では受動免疫によつて感染予防をはかる。」とあることに徴しても明らかであつて、これが当時の開業医の医療水準であつたのである。

二  被控訴人が診療義務に違反したとの点について

昭和四八年六月一九日控訴人田端が来院したのは、午後二時半か三時ころであつて、当時、同控訴人は、麻疹の最盛期にあつたものであり、受診以降、急激に症状が変化して、脳炎を併発したのである。すなわち、同控訴人は、同月一六日には未だ発疹はなく、口腔粘膜にコプリック斑等の特徴的な麻疹症状は出現しておらず、それが出現したのは一七日もしくは一八日であると推認され、一九日の右時点でも麻疹脳炎を疑わせる徴候がなかつた点を総合して、被控訴人は、同控訴人の40.1度の高熱は最盛期を迎える麻疹の一症状であると診断したのである。麻疹の最盛期では、患者は、高熱のためぐつたりして、呼吸も早く、食欲もなくなつて、水もあまりほしがらなくなるので、脱水症状が現れることが少なくなく、したがつて、尿量も減少するものである。麻疹脳炎は短時間のうちに急激に発症することが多いので、その蓋然性があると診断しなかつたことが誤りであるということはできない。仮に控訴人らの主張するように、同控訴人が受診した時刻が午後五時ころであつたとし、意識障害、呼吸困難など脳炎症状があつたとするならば、その後当然脳炎症状は急激に増悪していくから、一九日午後一〇時から一一時の間の浄風園総合病院受診時には、意識障害は昏睡に陥り、けいれんを起こし、項部強直はもとより呼吸困難も明白であつた筈である。したがつて、この時点で、総合病院という大病院において、医師も母親も同控訴人を入院させず、導尿その他外来治療のみで帰宅させたり、帰宅したりすることは考えられないから、本件脳炎症状の発症は、浄風園総合病院から帰宅した後とみるべく、どんなに譲歩しても、被控訴人の診察を受けてから後であることは、明白であるといわなければならない。また、腰椎穿刺の検査は、極めて危険な検査方法であつて、脳炎症状が認められなければ、実施すべきでなく、浄風園総合病院においてすら腰椎穿刺の検査を行わなかつたのは、脳炎症状が認められなかつたからであろう。また、臨床上麻疹脳炎の症状が確診できれば、麻疹脳炎と診断し、直ちに入院加療したであろう。臨床上の適応なしに早期に腰椎穿刺を行えば、細菌性髄膜炎を検出できず、診断を遅らせることになるばかりでなく、腰椎穿刺によつて致命的な小脳圧迫円椎を起こすことがあるので、この検査は、実情としては一般開業医では殆ど行われず、その必要性が認められる場合には、大病院に転医させているのである。以上のしだいで、被控訴人には一九日の診療につき何らの過失もないから、診療義務違反があるとの控訴人らの主張は、失当である。

三  被控訴人に損害賠償責任があるとの点について

被控訴人には何らの過失もないから、被控訴人に損害賠償責任があるとの控訴人らの主張は、すべて否認する。麻疹脳炎の発症率は、約0.1パーセントであり、しかも、これに対する特殊療法はない。麻疹脳炎が麻疹ウイルスによつて起こる以上、これにかかるか否かは、個体差により、その差は、免疫機能の差にある。本件の場合、ガンマーグロブリン緩和量投与にもかかわらず、殆ど発症予定日に発症し、定型的に経過し、しかも、脳炎後遺症を残して重症におわつたところをみると、麻疹ウイルスに対する免疫機能が不全であつたのである。そうだとするならば、不幸なことではあるが、控訴人田端に対しては、いかなる治療も効果を及ぼすことはできず、結局において本件結果を免れることは、不可能であつたといわざるを得ない。

第三  証拠<省略>

理由

一当裁判所も控訴人らの本訴各請求は理由がないと判断するものであり、その理由は、次のとおり付加し、削除し、又は訂正するほかは、原判決理由説示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一八丁裏七行目及び九行目の「被告」を「原審及び当審における被控訴人」と訂正し、同八行目の「証人真貝晃」の次に「、当審証人佐久間フサ」を付加し、同末行目の「原被告」を「控訴人及び被控訴人の」と訂正する。

2  同二〇丁表五行目の「フェーバール」を「フェノバール」と、同裏一行目の「佐久間ひさ」を「佐久間フサ」と各訂正する。

3  同二二丁裏一〇行目の「被告」を「前掲被控訴人の」と訂正する。

4  同二三丁表九行目の「不十分」の前に「、仮にそうでないとしても、麻疹感染患児に対するガンマーグロブリン療法については、予防量投与法及び軽減量投与法の二方法があること、控訴人田端に対しては予防量投与法が可能であり、これによつて完全に麻疹を予防することができること、その方が副作用等もなく、かつ、事後において生ワクチンの接種により終生免疫が得られることを説明して、患者の自己決定権を尊重し、患者の同意を得た上で医療行為を実施すべき義務があるにもかかわらず、右説明義務を怠り、」を付加する。

5  同二四丁表一行目の「第二四号証」の次に「甲第三一号証」を付加し、同二行目の「及び乙第一〇号証」を「、乙第一〇号証、乙第一一号証、乙第一二号証の二ないし七、九、一〇」と訂正し、「乙第七号証」の次に「及び乙第一一号証」を付加する。

6  同第二五丁裏四行目の「真貝晃の証言」の次に「、当審証人南谷幹夫の証言及びこれによつて成立の認められる乙第一二号証の一」を付加する。

7  同二七丁表九行目の「及び第一〇号証」を「号証、乙第一〇号証、乙第一二号証の三、五、七、九、及び一〇」と訂正する。

8  同二八丁表五行目の「十分量」の次に「(予防量)」を付加する。

9  同三〇丁表七行目と八行目の間に次のとおり付加する。

「 また、前掲乙第一二号証の三(東大小児科治療指針・一九六三年改訂第四版)によれば、感染予防を行うべきは、満四歳以下の年少児等何らかの意味で個体の抵抗性が減弱している場合に限定されるべきである旨の記載があり、右治療指針の改訂版とみられる前掲乙第一二号証の七、成立に争いのない乙第一四号証(いずれも一九七七年・改訂第七版増補「少児の治療保健指針」)によれば、満四歳以下の年少児うんぬんという記載は削除されているものの、麻疹ワクチン未接種児が患児に接触した場合には受動免疫による予防を行う以外になく、一児に麻疹の発疹をみた時、常にその児と接触している麻疹未経過児は感染後第四病日にあるとみてよいから、これが予防を行う上の一つの目安となるとの記載があるところ、右一連の記載は、満四歳以下の年少児が麻疹に感染した場合、予防可能な期間内であれば、医師は、ガンマーグロブリンの予防量を投与すべき義務があるかのごとき文意に解せられないこともないが、<証拠>によれば、昭和四八年当時においても右のような見解は必ずしも一般に支持されていたわけではなく、むしろ患児に結核、悪性腫よう等の基礎疾患、その他免疫異常が認められなければ、ガンマーグロブリンの緩和量(軽減量)を投与して、軽症麻疹として経過させ、永久免疫を獲得させるのが通常であるとされていたこと、その理由は、ガンマーグロブリンの予防量投与による受動免疫の効果は四週ないし六週間持続するにすぎず、また麻疹脳炎の発生率は0.1パーセント程度であり、麻疹感染児にガンマーグロブリンの緩和量を投与すれば、麻疹脳炎の発症をみることが少なくなり、更に当時ワクチンの接種による能動免疫法は存在したものの、これによるときは発熱の副作用を生じ、合併症、異型麻疹を来たす場合もあつて、確実に安全であるとの保障がなかつたからであること、そのため当時、一般開業医は、ワクチンの使用に強い拒否反応を示していたことが認められ、右事実によれば、一般開業医が麻疹に感染した満四歳以下の年少児に対し、原則としてガンマーグロブリンの予防量を投与して完全に発症を予防しなければならないという医療上の指針ないし常識があつたということはできない。結局、予防量投与法と緩和量投与法のいずれを採用するかは、右年少児の健康状態等、諸般の事情を考えあわせ、ケース・バイ・ケースによつて医師がその裁量により適正と信ずるところに従つて決定することができるものと解するのが相当である。

控訴人らは、完全予防が可能と認められる麻疹感染児に対する医療行為を実施する場合には、医師は、患者側に対して、予防量投与法と緩和量投与法の二方法があることなど、その説明義務を尽くして、患者の自己決定権を尊重し、その同意を得る必要がある旨主張するけれども、そもそも医師の説明義務というものは、医師が診断又は治療のため、患者の肉体の無傷性に対する侵襲行為、すなわち手術に代表されるように外形としては身体への侵害と考えられる医療行為をするについて、原則として患者の有効な承諾を得る必要があるので(もつとも軽度のものは承諾が推定されることが多いであろう。)、その承諾をとる前提として、医師が患者に判断資料を与えるため説明をする義務という意味で一般に認められるところであり、他に治療内容としての指導義務に付随する説明義務を指すこともあるが、少くとも本件で控訴人らが主張するように、いかなる医療措置を採るかを一般に患者の「自己決定」ないし選択に委ねるべきことを前提として、そのために医師が患者に対する説明義務を負うということは考えられない。何となれば、医療はまさに医師の職責で、高度の専門性があり、医師は医療水準に従い、正当と信ずる医療を行うべきものであつて、もし患者の選択に従つて医療をしなければならないとすれば、医師は常に患者の意向を確認すべきことになつて混乱し、専門技術としての適正な医療は到底行われないからである(そのかわり患者に転医の自由がある。)。もとより事情に応じ、一般に医療内容につき患者の希望を聴くのが相当な場合もありうるが、その事情は医学上以外にわたることも多く、いずれにせよ、医師の義務ではない。控訴人らは、本件の場合は、ガンマーグロブリンの軽減量投与法では、低率にせよ麻疹脳炎等の合併症の危険があるのに対し、予防量投与法は完全に麻疹感染を予防し、右危険がないのであるから、いずれを採るかは患者の自己決定によるべきであるとの趣旨の主張をするけれども、軽減量投与法自体に合併症を招く危険原因があるわけではないし、右両方法は、前認定のようにそれぞれ長所短所があり、医療水準及び具体的事例によつて適否が異なるのであるから、両方法の採否にあたり問題とされるのは、医療効果という医学上の事柄であつて、前示侵襲行為に対する承諾とは関係がないのである。

以上の認定事実に徴すれば、昭和四八年当時は勿論、現在においても、一般開業医が麻疹感染児に対する医療行為を実施する場合に、当該医師が控訴人らの主張するような説明義務を負担していたものとは到底解することができない。」

10  同三一丁表一行目から四行目までを削除し、そのあとに次のとおり付加する。

「 そうだとすれば、昭和四八年六月七日における被控訴人の控訴人田端に対する医療行為には何ら違法の点は存しないから、被控訴人に完全予防義務違反ないし説明義務違反があるとの控訴人らの主張は、理由がなく、採用することができない。」

11  同三四丁表八行目と九行目の間に次のとおり付加する。

「 控訴人らは、昭和四八年六月一九日午後五時ころ控訴人田端が受診したときの同控訴人の身体的症状に照らし、被控訴人は、当然麻疹脳炎の診断を下すか、又は麻疹脳炎を予見して、早期に脳脊髄液検査を実施し、麻疹脳炎を発見すべき義務があること、そして同控訴人が早期に強力な対症療法を受ければ、麻疹脳炎後遺症を回避できた高度の蓋然性が認められる旨主張し、特に発疹後四日目の高熱、意識障害及び尿閉の点を強調するが、前記認定事実と前掲乙第一二号証の一、当審証人南谷幹夫の証言及び以下の認定をあわせ考えると、同控訴人の右症状は、麻疹脳炎の最盛期と判断しても差支えないといえる。

まず高熱の点であるが、控訴人らは、控訴人田端が発疹したのは六月一六日であると主張し、これを前提として、四日目の一九日には熱は下がるはずであるというけれども、たとい発疹を一六日とみても、成書で四日目に熱が下がると明記されたものは証拠上存せず、かえつて発疹期の熱の継続期間を七日ないし九日とするもの(前掲乙第一二号証の二)、四日ないし七日とするもの(前掲甲第二四号証)もあるのであつて、証人南谷幹夫の証言による三日ないし四日説によるとしても、原審証人真貝晃の証言をあわせ、同控訴人の一九日の熱の状態が麻疹の経過上異常であるとはいえない。

次に意識障害については、前認定(原判決引用)のとおりで、六月一九日の被控訴人の診察時(午後五時ころであるとの心証を動かすことはできない。)、同控訴人に医学上の意義における意識障害があつたとまでは認められない。

また尿閉の点については、前記浄風園病院における導尿の事実(前掲甲第八号証によれば、採取量は一六〇ミリリットルと認められる。)があるからといつて、尿が出なかつたことが直ちに神経因性直腸膀胱障害によるもので麻疹脳炎を疑わせる神経の異常であると認めるわけには行かないことは、証人南谷の、尿が出ないことは麻疹の正常経過の中でもあるとの証言でも明らかであり、他に控訴人らの主張を認めるに足りる証拠はない。

以上を通じ、六月一九日の被控訴人診察時における控訴人田端の症状は、決して軽くはないけれども、さりとて麻疹最盛期の経過として異常であつたと認めることもできず、更に、前記のように同症の原因、機序は明らかでないこと、証人南谷、原審証人真貝の各証言により認められる、同症の発症は麻疹の軽重とは必ずしも関連しないことをあわせ考えると、被控訴人が、控訴人田端が当時麻疹脳炎に罹患し、又はそのおそれがあると診断又は予見しなかつたことは、やむをえないことといわざるをえない。なお、同控訴人がガンマーグロブリンの軽減量投与を受けたのに軽症に経過しなかつたことは、投与の時期が前記のように有効期間ぎりぎりで、感染の日の推定の誤差によつては、効果を受けられなかつたことも考えられ(成立に争いのない乙第一二号証の一七によれば、投与はなるべく早い方がよいと認められる。)、また証人南谷の証言によれば、体質上の問題も考えられなくはないから、前認定を左右しない。」

二以上のしだいで、被控訴人には過失はないから、その過失があることを前提とする控訴人らの本訴各請求は、その余の点について判断を加えるまでもなく、理由がないから、棄却すべきである。したがつて、これと同趣旨に出た原判決は、正当である。

よつて、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第九三条第一項、第八九条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(小堀勇 吉野衛 山﨑健二)

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